思い出の中で綺麗に

「好きだった」バンドが活動を休止した。

 

 

 

Halo at 四畳半の活動休止が発表されたとき、わたしはその事実そのものよりも、その発表に対して悲しいとか悔しいとか、そういう強い感情が生まれなかったことに、悲しくなった。

ああわたしは、もうこのバンドから心が離れてしまっているのだな、と。

 

そしてそれと同時に、彼らと仲の良い、わたしの一番好きなバンドのことを想って、「ああ、彼らじゃなくてよかった」と、そんな残酷なことを漠然と思った。

 

 

 

 

こんな最低な話は一度置いておいて、私が彼らを追いかけていた頃に話を戻す。初めて観たのは2015年の尼崎Deepa。彼らの関西初の長尺ライブだった。今思えば奇跡のようなセットリストだったけれど、その時の私はシャロンすら曖昧な程度で、それでも確かにあの狭い、今は無きDeepaは熱かったことを覚えている。拳を、緊張しつつも気付けばがむしゃらにあげたのを覚えている。高校1年生の春、地方から鈍行を乗り継いで行った。ライブハウスに行き始めて1年も経たない頃だったから、そういう荒削りなライブハウスらしさに惹かれて、純粋にその雰囲気が楽しかった。

 

そう、あの頃のハロは熱かった。

 

それからはCDを聴き込んでライブに通う日々。地方だったから、時間や休日の兼ね合いで関西に出るのは単体の企画やツアーよりもほとんどがサーキットフェスで、その30分5曲に全力をかけていた。

たぶん彼らもそうだった。いつかのサーキットでのライブを今でも覚えていて、確か久しぶりに瓦礫を聴いて、本当に感情のやり場がないくらい全てを持っていかれたことがある。あの頃、いつも2曲目はアメイジアで、最後はシャロンでさ。「立ち向かうべき明日へシャロンという曲を」という、その一言にいつもいつも救われていた。そして力強かった。いつも渡井さんは叫ぶみたいに声を張り上げて歌っていて、思いがその気迫から伝わってきていた。そして間奏でかき鳴らすギターの中で、「ありがとう」とか、或いは言葉にならない「おい!」とか、そういう言葉をマイクを通さずに客席に向ける。それがたまらなく好きで、その想いが込み上げて止まらない様を、それをなんとかして伝えようと、声にしたり音にしたりしている姿を、わたしは大好きで、何度でも見たかった。

この頃のわたしはよく、「マイクに全部ぶつけるみたいに」と表現している。本当にそうだった。

 

 

 

 

いつからかな、それをあまり感じなくなったの。

確実に覚えているのは、swanflightが出た時のツアーだ。大学生になった私は関西に住んでいて、時間もお金も余裕ができて、高松大阪東京と3公演に足を運んだ。

アルバムを買う。前ほど聴き込まなくなった。勢いでチケットを取って、惰性で遠方のライブに行った。あまり心が動かなかった。

東京で昔からハロを好きな友人たちと並んで見た。隣で彼女たちが涙する中で、わたしはどうしても、物足りなさを感じた。

 

綺麗になったのだな、と、少ししてから気付いた。

 

私の中でハロは、別に激しいイメージなんてなくて、むしろ優しいバンドであることは間違いない。でもその中で、強い意志と言葉を持って、ライブになると勢いに任せて音を放つようになる、そんなところに心を動かされていた。それなのに、いつのまにか彼らのライブは綺麗になって、彼らの歌特有の物語をただ朗読するかのようになぞるだけになっているように感じて、ライブ特有の熱気とか、そういうのが薄れているような気がした。

 

そうして私は少しずつ、彼らの曲を聴かなくなってゆく。

 

 

活動休止が発表された時、だから私は、高校生の頃あんなに追いかけて、ライブに行って、深夜の配信を欠かさず聴いて、そして心を奪われて動かされて、彼らの言葉を音楽を信念にしていて、そんなバンドの活動休止発表に対して、あまりショックを受けていない自分がショックだった。

それは悲しみの軽減でもあって、でもとても寂しいことだった。例えば数年前の私なら、もう立ち直れないくらいの衝撃を受けていただろうに。

 

それから、愛してやまぬいわゆる御三家のライブが発表されて、またハロ好きの友人たちが集まった。みんなおそらく同じ頃から、2014年ごろからハロを好きでいる人たち。地元も違う人たちが、また東京に集まった。

ぼくらのウォーゲーム

これが私の、ハロの見納めになった。活動休止ワンマンに行くことも考えた。チケットはなかったけど、本気で探せばおそらく見つけることはできた。でも、そうしなかったのは、やっぱりそういうことなんだろうな。活動休止がわかっていても、やっぱりそのライブでも、私の心は以前のようなわくわくを取り戻せなかった。

 

どこから私は道を逸れていったのか、わからないし、私の好みが変わったのかあるいは音楽が、ライブが変わったのか、それもわからない。ただ、大人になるにつれて興味がなくなっていくものはあって然るべきで、必然の流れなんだろうなと覚悟をするしかないんだと思う。

 

そして、「彼らじゃなくてよかった」と不謹慎にも思った私の大好きなバンドはこれからも続いていく。だけど、こうしていつかゆるやかに、私はそのバンドのライブに行かなくなって、曲を聴かなくなって、そしてあんなに大好きだったライブハウスから離れていくんだろうな、と心の隅で思い始めている。

 

だけどひとつ言えることは、あの時彼らを好きだった事実は変わらないし、そしてその頃の音楽を聴く限り、いつでもその瞬間の感情を鮮明に思い出すことができる、ということだ。大好きな「瓦礫の海に祈りを捧ぐ」も「リバース・デイ」も、私はあの日のライブを思い出しながら聴くことができる。そしてその時はいつも冷めやらぬ感情の中にいる。

綺麗なままにしておく。

 

この文章を書くにあたって、以前私が書いていたライブの感想を読み返していた。

見放題MUSEで、最前列で何度もありがとうと叫ぶ渡井さんの声をマイクを通さず聞いたこと、何度も行った大好きな高松DIME、万有信号のツアーでチケットを必死に探して新年早々向かった広島の御三家ライブ、受験前に背中を押してくれた箒星について。あの頃行っていたライブハウスは、ハロに限らず、今よりずっとずっとワクワクが詰まっていて楽しかったことを思い出す。それは高校生の閉塞感の中で、普段住んでいる場所から抜け出していくことへの開放感とか、初めてというドキドキ感とか、色々なものがあったんだろうな。今の私は、どこへでも行けて、なんでもできる代わりに、その感情を失ってしまったのかあ。

 

この後は懐かしい思い出に浸ろうかな。怖いことに、わたしは随分昔の不毛キャスの録音まで未だに持っているので。毎日すべてのコンテンツを逃すまいと音楽だけを中心に生きていた頃の感覚へ、久しぶりに戻ってみようかな。

 

最後に。

ハロが戻ってくる日は来るのだろうか。ウォーゲームの時、まるで解散するみたいな体で他のバンドがこぞってメッセージを送るものだから、なんとなくこのまま、なくなっていくような気もしてしまう。

 

だから、私はこの言葉を伝えたい。

 

私は渡井さんの言葉が大好きで、物語とか文章を書いて昇華することも好きだから、僭越ながら考え方が似ている部分があるなあと前々から思っていて、だから渡井さんが今のアカウントを作るよりずっと前にしていたInstagramが大好きだった。投稿の言葉ひとつひとつが本当に、今まで言葉にできなかった部分の感情とかを的確に表現していた。そのアカウントは突然消えてしまったのだけれど、その中の一つに、忘れられない言葉がある。

見た瞬間にズバッと撃ち抜かれてスクリーンショットを撮っていて、それだけは何度も見返して、だからもはや一言一句違わず覚えている。わたしはその言葉を、これから先も思い出していくだろう。

本当は誰にも教えたくないくらい好きなフレーズで、突然アカウントが消えたあの時から、これをちゃんと取っておいた自分だけのために秘めておきたいくらいなのだけれど。

 

 

 

思想は強めがいい。いつの時代も言葉ひとつでトリップできるから、酒も煙草も薬も無くていい。どんな酔いよりも、自分がグッとくる言葉をかけている時の方が気分がいい。二日酔いもない。鉛筆と紙があればどこへでも行ける。お金も要らない。ただ時間だけは掛かる。こればっかりは何に代えることもできない。いつ死んでもいいなんてことはないけど、いつ死んでもいいように言葉にするの。おはようから夢の話まで。僕が死んでも言葉は生きるの。

2016.05.19

 

 

 

 

渡井さんらしい言葉。

 

 

そして、そう、こうして。

言葉も歌も、残っていく。