新しい服を纏って、裸のままで
New Clothesで、彼らは確実に原点回帰したと思う。
いてもたってもいられなくてこの文章を書く。
こう言ってしまうととても安っぽいけれど、間違いなく「ずっと私の一番」にいるバンド。
LAMP IN TERRENの話をやっと書こうと思った。
とはいえ、好きすぎるあまりに1ページに収まる言葉では足りないので、今回は私が、彼らを好きなんだと再認識した曲についてに絞って書きたいと思う。
New Clothesが出た時、私は「ああ、松本大は全てわかっていたんだな」と確信した。
前アルバム「fantasia」がリリースされた時、私は正直どうしていいかわからなかった。それが、好きになれなかったからだ。
私はテレンのギターロックが好きで、ちょっと憂いを含んだような曲とか、ギターをかき鳴らす曲とか、ポップだけれど歌詞はすごく孤独で深かったり、そういうところが好きだった。
だから、fantasiaが出た時、「いつからこんなただのポップスになったんだろう?」というのが正直な感想だった。
ポップな曲にポップな歌詞を合わせたら意味なんてないように感じたし、そもそもギターを捨てて電子音に振り切ったのか?と、そこにも納得できなかった。
唯一、eveとオフコースが好きだったのは、私の趣向を的確に示していると思う。
暗い曲が好きってわけじゃないけど、音楽はとてもシンプルで歌詞が入ってきやすいし、その歌詞自体も寄り添われていて、かつeveなんかは憂いを含んでいて、そういうのが好きだった。
でも、とても烏滸がましい言い方になるけれど、私は彼らにずっと私の一番であってほしかったから、fantasiaだってそれなりに聞いていたし、ツアーにも何箇所か足を運んだ。
ライブ直前までアルバムに気持ちが追いつかなくて、でも、やっぱりライブのテレンは素敵で、ちゃんとこれを受け入れていかなきゃいけない、と思ったのを覚えている。
でもやっぱり、地球儀で飛べ!とか、こればっかりはハンドマイクも受け入れられなくて、
こういうバンドになるの?と、周りに合わせて飛ぶこともできなかったのを覚えている。
そんな時、ポリープでテレンが活動休止をすることになった。
その時期に発表されたNew Clothes。
この曲が出た時、確実に彼らの音楽の方向性が変わった、というか、元の方向へ、でも戻っていく訳ではなく確実に前に向かって進んだんだということが、曲からだけではっきりと伝わってきた。
そして間違いなくこれは、他の誰でもなく松本大、彼自身の歌なんだなと確信した。
それをはっきり思ったのは、活動休止開けの野音だったと思う。
正真正銘、色んな意味で生まれ変わって「新たな服」を纏った彼らが大きなステージに立っていた。
一回、テレンは自我を失っていて、流行りに流されるようにいわゆる売れ線のほうに流れていっていたと思う。
彼らの音楽はそういうのじゃなくて、もっと重みのあるものであるはずなのに。
活動休止ということを通して、もしかすると見つめ直す期間があったのかもしれない。
本当に自分のやりたい音楽とは、みたいな。
その部分は私にはわからないけど。
その結果、やっぱり大衆受けよりも、彼らのやりたい音楽の本質を見つけてくれて、できたのがこの曲だと。
私がこの曲を好きなのは、いくつか理由があって。
まずひとつは、まるで言葉かのように表現がわかりやすくて率直で、彼の伝えたいことが説明なしにわかるところ。
私は曲の解釈が苦手なのだけれど、それでもわかるくらいにこの曲はわかりやすい。
「理想を求めすぎて壊れた」
「期待の眼差しに焼かれた」
「さあどんな姿で歌おうか決して消えない過去の上に立って」
まさにステージでライトを浴びる彼ら。
多分、売れたいとかにしがみつこうとして、どんどんやりたいことと離れていったんじゃないかなあ。
だからここからさあどんな歌を歌おうか、と新たに決意を固めている。
全ての経緯と、彼の感情がわかりやすく綴られていて、そこがあまりに赤裸々で、好きだなあと思ってしまう。
次に、彼らが全てを分かっている、ということが、伝わってくるからこの曲が好きというのもある。
「全て」、それは、「fantasia」が彼らにとって「理想を求めすぎて壊れた」、あるいは着飾ったものだったということ。
それを自覚していること。
道を逸れていたのだとはっきり、きっと気づいていたんだと思う。
そしてそうしてしまった理由も。
そういう過去を全て理解した上に、新たな決意としてこの曲が立っているから、好き。
そして3つ目に、この曲のライブパフォーマンスが本当に本当に、赤裸々で身一つであるというところが、大好きで。
至ってシンプルな音だけを鳴らしていて、ただ歌声に集中している。
この曲の時はまるで松本大がひとりステージの真ん中に身ひとつで立たされて、スポットライトを浴びているような、そんな光景が見える。
「さあどんな姿で歌おうか」と、がなりあげるように声を張り上げて、枯れるまで歌う姿が、
素朴でとても弱々しくもあり頼もしくもあるような不思議な感じがして、そこにとてつもない感情の塊を感じて、後悔も意思も感じて、
とにかくその気持ちのこもり方が、今までにないものだったから。
特に好きなのはやっぱりラスサビで、
「さあどんな姿で歌おうか」さらに半音上がって声が苦しくなって、でも声を壊れるぐらいに張り上げて、身体を震わせて歌うその姿と歌声が。
本当に、これからを見る意思を強く強く感じて。
「ああ私はこの声が好きなんだ」と何度も何度も思ったし、
「この人は、このバンドはもう大丈夫だ」とも思った、
全てを受け入れてここから、必ず彼らに似合う方へ、私の好きな方へ向かっていってくれるだろうという確証を持つことができた。
ほんとうにこの曲のラストは、鳥肌が止まらないくらいに迫力のある歌声を見せてくれる。
「今が正しい未来」
最後にそう力強く歌うそれは、まるで綺麗事ではあるんだけれど、そこに間違いはないと本気で思える。
間違いなくNew Clothesで彼らは一つのことを乗り越えて、本当に伝えたいこととか、そういうものに原点回帰をして、
今が本当に、LAMP IN TERRENの本当の形であってあるべき姿であって「正しい未来」だとはっきりわかる曲。
彼らの意思と、確実な変革を感じられる、だから私はこの曲が好き。
この曲がある限り、彼らはもう理想を追い求めて、違う方向へ行ってしまうことはないんじゃないかな。
そう確信して、今もそれは裏切られていない。
この頃までずっと、私が生で見た最高傑作のテレンのライブは2016年1月23日(いまも日にちを覚えているくらいに)で、そこから更新されていなかったんだけれど、
New Clothesが入ったアルバムのツアー、BABY STEPで、確実に、それも大幅に更新されたと思っている。
岡山、大阪と行ったんだけれど、本当にこのツアーの岡山で観たNew ClothesとBeautifulが忘れられなくて。
the.naked blues、この言葉も、このアルバムで生まれ変わったことを象徴するのにぴったりで、nakedと、bluesyardから使われているbluesという言葉、まさに原点回帰。
このアルバムが本当に好きなんだけど、この日は本当に気合いというか力が入っていて。
もう歌う曲歌う曲、心配になるくらい感情を込めて声を枯らして叫ぶみたいに歌っていて。
New Clothesのラスサビも、序盤から飛ばしすぎだよってくらいの声で、震えあがっちゃって。
もうその声に釘付けだった。
今まで見たことないくらいの気迫だった。
本当に、ここまでの力を込めてくれて、精一杯を見せてくれて、好きだと思った。
そして、Beautiful。
力が抜けたように歌っていたかと思えば、サビでいきなり暴れ出す。
歌声ももう歌というより本当に叫びに近かった。
「叫ぶように光って」
本当に、お世辞でも比喩でもなく、閃光のようだった。
そして、ハンドマイクで歌っていた松本大は、歌だけじゃなくその身体でも感情を爆発させていて、壊れてしまったんじゃないかというぐらい暴れ回っていた。
衝撃なのか感動なのか、何もかもよくわからなかったけど、Beautifulという曲はつまりこういうことなのかと、ぐっと感じた。
「叫ぶように光って数秒を奪っていく」
「眩しいまま胸に今も焼き付いている」
と、まさに。
New Clothesはともかく、この日以上のbeautifulを私は見ていないし、おそらくこの先も見ることはないんだろうなと思う。
でも、本当にその瞬間はどうしていいかわからなくなって、好きという気持ちが溢れてきて、
私が待っていたのはこれだ、これが聞きたかったんだ、と、溢れる感情を言葉にすることすらできなかった。
ただひたすら、彼にしかできないものだと確信をしていた。
はあ。
つまりは、New Clothesは彼らの一つのターニングポイントだったと思うし、これからを指し示す覚悟の意思を感じる曲だし、
松本大が過去を振り返って今の自分を書いた、本当に本当に赤裸々な曲だと思う。
弱い部分を曝け出していると思う。
し、実際にそんなことをMCで言っていた記憶も微かにある。
そして、醍醐味である松本大、彼の歌声を存分に発揮して、しゃがれ声を張り上げて力の限りに歌ってくれる曲でもある。
それがとてもステージで映える。
真ん中にギターを持って立って、この曲で「戦う」姿が本当に好き。
今はもうこの曲から時間も経ってしまったけれど、
当時の私は本当にこの曲ができたことに対して日々感動していて、
私の好きなテレンだ、と毎日のように言っていた。
今のランプインテレンは、本質を持ったまま変わり続けていると思う。
naked bluesが本当に好きだったからその次に優しいアルバムが出た時はずいぶんまた違うな、とは思ったけれど、
それは以前みたいな違いではなくて、本質を同じところに置いた変化であったし、
それでいてやはりnaked bluesと近いものを作るよりも、先へ進んでいる感じがした。
彼らはもうどんな音楽でも作れる。
心身二元論でさらにそれを確信している。
昔は「変わらないで欲しい」と言い続けていて、まあ実際本質は変わっていないのだけれど、
結局長く好きでいるためには、「変わらないまま変わり続ける」ことが必要なのだなと最近になってようやくわかった。
なんか色んなアーティストが口を揃えていう「変わらないまま変わる」の意味が前の私にはわからなかったけど、今はわかる。
今のテレンがそうなのだ、ともわかる。
なぜなら、本当に何も変わらずにいたバンドの音楽を、今の私は聞かなくなってしまったから。
人間、歳を重ねたら感性が変わる。
だから、中高生の頃聴いていた音楽と同じものを聴き続けることはできない。
だから、私はそういうバンドから離れていった。
もちろんたまに思い出として懐かしんで聴くことはあるけど、新たに今の歳になって取り入れようとは、どうにも思えなくなってしまった。
じゃあなんでテレンからはずっと離れられないのかな、と考えた時に、
彼らは確かに変わらない部分を持ちながらも色々な曲調とか音に挑戦して、パターンを増やして、
いい方向へどんどん変わっていっているからだとわかった。
だから、今の彼らが、大好きなsilver liningのような曲を書くことはきっともうなくとも、好きでいられる。
というより、彼の声が健在である限りは、離れられないのかもしれないけど。
そして彼らは彼らのポジションを受け入れて、無理にポップになんてしないで、ありのまま彼らの音楽をやっている。
それが対バンと真逆の雰囲気を醸し出していても、彼らはもう気にしていなかった。
だからこれからもずっと好きです。
とても長くなってしまった。これで1曲分のお話。
まだまだ好きな曲も、エピソードもたくさんあるから、それはまた次に。
思い出の中で綺麗に
「好きだった」バンドが活動を休止した。
Halo at 四畳半の活動休止が発表されたとき、わたしはその事実そのものよりも、その発表に対して悲しいとか悔しいとか、そういう強い感情が生まれなかったことに、悲しくなった。
ああわたしは、もうこのバンドから心が離れてしまっているのだな、と。
そしてそれと同時に、彼らと仲の良い、わたしの一番好きなバンドのことを想って、「ああ、彼らじゃなくてよかった」と、そんな残酷なことを漠然と思った。
こんな最低な話は一度置いておいて、私が彼らを追いかけていた頃に話を戻す。初めて観たのは2015年の尼崎Deepa。彼らの関西初の長尺ライブだった。今思えば奇跡のようなセットリストだったけれど、その時の私はシャロンすら曖昧な程度で、それでも確かにあの狭い、今は無きDeepaは熱かったことを覚えている。拳を、緊張しつつも気付けばがむしゃらにあげたのを覚えている。高校1年生の春、地方から鈍行を乗り継いで行った。ライブハウスに行き始めて1年も経たない頃だったから、そういう荒削りなライブハウスらしさに惹かれて、純粋にその雰囲気が楽しかった。
そう、あの頃のハロは熱かった。
それからはCDを聴き込んでライブに通う日々。地方だったから、時間や休日の兼ね合いで関西に出るのは単体の企画やツアーよりもほとんどがサーキットフェスで、その30分5曲に全力をかけていた。
たぶん彼らもそうだった。いつかのサーキットでのライブを今でも覚えていて、確か久しぶりに瓦礫を聴いて、本当に感情のやり場がないくらい全てを持っていかれたことがある。あの頃、いつも2曲目はアメイジアで、最後はシャロンでさ。「立ち向かうべき明日へシャロンという曲を」という、その一言にいつもいつも救われていた。そして力強かった。いつも渡井さんは叫ぶみたいに声を張り上げて歌っていて、思いがその気迫から伝わってきていた。そして間奏でかき鳴らすギターの中で、「ありがとう」とか、或いは言葉にならない「おい!」とか、そういう言葉をマイクを通さずに客席に向ける。それがたまらなく好きで、その想いが込み上げて止まらない様を、それをなんとかして伝えようと、声にしたり音にしたりしている姿を、わたしは大好きで、何度でも見たかった。
この頃のわたしはよく、「マイクに全部ぶつけるみたいに」と表現している。本当にそうだった。
いつからかな、それをあまり感じなくなったの。
確実に覚えているのは、swanflightが出た時のツアーだ。大学生になった私は関西に住んでいて、時間もお金も余裕ができて、高松大阪東京と3公演に足を運んだ。
アルバムを買う。前ほど聴き込まなくなった。勢いでチケットを取って、惰性で遠方のライブに行った。あまり心が動かなかった。
東京で昔からハロを好きな友人たちと並んで見た。隣で彼女たちが涙する中で、わたしはどうしても、物足りなさを感じた。
綺麗になったのだな、と、少ししてから気付いた。
私の中でハロは、別に激しいイメージなんてなくて、むしろ優しいバンドであることは間違いない。でもその中で、強い意志と言葉を持って、ライブになると勢いに任せて音を放つようになる、そんなところに心を動かされていた。それなのに、いつのまにか彼らのライブは綺麗になって、彼らの歌特有の物語をただ朗読するかのようになぞるだけになっているように感じて、ライブ特有の熱気とか、そういうのが薄れているような気がした。
そうして私は少しずつ、彼らの曲を聴かなくなってゆく。
活動休止が発表された時、だから私は、高校生の頃あんなに追いかけて、ライブに行って、深夜の配信を欠かさず聴いて、そして心を奪われて動かされて、彼らの言葉を音楽を信念にしていて、そんなバンドの活動休止発表に対して、あまりショックを受けていない自分がショックだった。
それは悲しみの軽減でもあって、でもとても寂しいことだった。例えば数年前の私なら、もう立ち直れないくらいの衝撃を受けていただろうに。
それから、愛してやまぬいわゆる御三家のライブが発表されて、またハロ好きの友人たちが集まった。みんなおそらく同じ頃から、2014年ごろからハロを好きでいる人たち。地元も違う人たちが、また東京に集まった。
これが私の、ハロの見納めになった。活動休止ワンマンに行くことも考えた。チケットはなかったけど、本気で探せばおそらく見つけることはできた。でも、そうしなかったのは、やっぱりそういうことなんだろうな。活動休止がわかっていても、やっぱりそのライブでも、私の心は以前のようなわくわくを取り戻せなかった。
どこから私は道を逸れていったのか、わからないし、私の好みが変わったのかあるいは音楽が、ライブが変わったのか、それもわからない。ただ、大人になるにつれて興味がなくなっていくものはあって然るべきで、必然の流れなんだろうなと覚悟をするしかないんだと思う。
そして、「彼らじゃなくてよかった」と不謹慎にも思った私の大好きなバンドはこれからも続いていく。だけど、こうしていつかゆるやかに、私はそのバンドのライブに行かなくなって、曲を聴かなくなって、そしてあんなに大好きだったライブハウスから離れていくんだろうな、と心の隅で思い始めている。
だけどひとつ言えることは、あの時彼らを好きだった事実は変わらないし、そしてその頃の音楽を聴く限り、いつでもその瞬間の感情を鮮明に思い出すことができる、ということだ。大好きな「瓦礫の海に祈りを捧ぐ」も「リバース・デイ」も、私はあの日のライブを思い出しながら聴くことができる。そしてその時はいつも冷めやらぬ感情の中にいる。
綺麗なままにしておく。
この文章を書くにあたって、以前私が書いていたライブの感想を読み返していた。
見放題MUSEで、最前列で何度もありがとうと叫ぶ渡井さんの声をマイクを通さず聞いたこと、何度も行った大好きな高松DIME、万有信号のツアーでチケットを必死に探して新年早々向かった広島の御三家ライブ、受験前に背中を押してくれた箒星について。あの頃行っていたライブハウスは、ハロに限らず、今よりずっとずっとワクワクが詰まっていて楽しかったことを思い出す。それは高校生の閉塞感の中で、普段住んでいる場所から抜け出していくことへの開放感とか、初めてというドキドキ感とか、色々なものがあったんだろうな。今の私は、どこへでも行けて、なんでもできる代わりに、その感情を失ってしまったのかあ。
この後は懐かしい思い出に浸ろうかな。怖いことに、わたしは随分昔の不毛キャスの録音まで未だに持っているので。毎日すべてのコンテンツを逃すまいと音楽だけを中心に生きていた頃の感覚へ、久しぶりに戻ってみようかな。
最後に。
ハロが戻ってくる日は来るのだろうか。ウォーゲームの時、まるで解散するみたいな体で他のバンドがこぞってメッセージを送るものだから、なんとなくこのまま、なくなっていくような気もしてしまう。
だから、私はこの言葉を伝えたい。
私は渡井さんの言葉が大好きで、物語とか文章を書いて昇華することも好きだから、僭越ながら考え方が似ている部分があるなあと前々から思っていて、だから渡井さんが今のアカウントを作るよりずっと前にしていたInstagramが大好きだった。投稿の言葉ひとつひとつが本当に、今まで言葉にできなかった部分の感情とかを的確に表現していた。そのアカウントは突然消えてしまったのだけれど、その中の一つに、忘れられない言葉がある。
見た瞬間にズバッと撃ち抜かれてスクリーンショットを撮っていて、それだけは何度も見返して、だからもはや一言一句違わず覚えている。わたしはその言葉を、これから先も思い出していくだろう。
本当は誰にも教えたくないくらい好きなフレーズで、突然アカウントが消えたあの時から、これをちゃんと取っておいた自分だけのために秘めておきたいくらいなのだけれど。
思想は強めがいい。いつの時代も言葉ひとつでトリップできるから、酒も煙草も薬も無くていい。どんな酔いよりも、自分がグッとくる言葉をかけている時の方が気分がいい。二日酔いもない。鉛筆と紙があればどこへでも行ける。お金も要らない。ただ時間だけは掛かる。こればっかりは何に代えることもできない。いつ死んでもいいなんてことはないけど、いつ死んでもいいように言葉にするの。おはようから夢の話まで。僕が死んでも言葉は生きるの。
2016.05.19
渡井さんらしい言葉。
そして、そう、こうして。
言葉も歌も、残っていく。
アンサーソング
あるバンドマンに、曲を作ってもらったことがある。
と、言うと少し語弊があるんだけれど、
正確に言えば、「私の言葉をきっかけに作られた曲」がある。
中高生のころ、よく聴いていたバンドがいた。
それでも世界が続くなら。それせか。
そのバンドの音楽は、音楽的に好みとか、そういうのよりも、救われるために聴いているような感じだった。
私は中学生くらいの時、人間関係とか家庭の事情とか、そういうのに悩んでいて、学校に行きたくなかったり、家の誰にも本音を話せなかったり、まあそういう感じで一時どうしようもなく病んでいた。とは言っても今思えばその悩みも、例えばいじめがあるとか家庭内暴力があるとかそんな大層なことではなくて、人並みに誰しもが10代の頃に陥るような、その程度の葛藤だったと思う。だけど、まだ世界が狭かった自分にとっては、自分は周りの誰よりも不幸ぐらいのことを思っていた。
そんな中で、そのバンドの音楽だけが救いだったと、そう公言していた時期があった。というか、当時を思えば本当にそうだったと思う。
彼らの音楽は綺麗でもなければ上手くもない。歌声が特別綺麗でも、音楽性がすごいわけでもない。むしろ、荒削りな声で、時には音程を無視して、そんな感じ。受け入れられない人には受け入れられないような音楽だと思う。
でも、彼らの歌詞はリアルで赤裸々で、実際私が当時抱えていた思いを見事に表現していた。それまで歌なんてみんな綺麗事を並べているだけだ、と思っていたのに、彼らは傷つきたいなら傷つけよ、のスタンスで歌詞を書いていた。自分が誰よりも不幸だと思うとか、他人と比べてどうとか、そういう誰しもが内に秘めている思いを的確に言い当てていて、だから響いたし、彼らはわかってくれているんだ、と子供ながらに思った。私はどうしようもなく自己肯定感が低い人間だったから(今もそうだけれど)、そういういわゆる「生きにくい」人たちに向けて、同じ目線からその生きにくさをわかるよって、そう言ってくれる音楽だった。
ネットでたまたま見つけたブログで紹介されていた「水色の反撃」を聴いた時、私は鳥肌が止まらないという初めての感覚に出会った。初見でビビッとくる音楽にその後何度か出会ったけれど、それを初めて経験したのはまぎれもなく彼らの音楽だった。それが出会い。
そこから、「私の葛藤を理解して昇華してくれるのはそれでも世界が続くならの音楽だけだ」、という、私の世界が創り上げられていった。
中高生の頃は、何か人間関係で嫌なことがあると、「私には音楽があるからいい、音楽しか信じてないし」と虚勢を張っていたのを思い出す。そういう世界の中に居て、言い訳をすることで自分を守っていたと思う。
人見知りで友達が多くなかったから、部活帰りは大抵1人で帰っていた。校門を出た瞬間にイヤホンを耳に押しつけて、「私は1人で平気だから、音楽があるし」と言い聞かせて早足で歩いていた。
思い返せばなんて可哀想な奴なんだ、という感じもするけれど、あの頃に音楽を好きじゃなかったら自分はここまで自分を繋ぎ止めていられなかったかもしれないな、と少しだけ思う。
まあとにかく、そうやって音楽やバンドというもので自分を言い聞かせて守っていたころ、たくさんのバンドに出会ったけれど、本当にメンタルがボロボロになって苦しい時・辛い時には、「それせかしか聴けない」こともあった。
ある時、理由は忘れたけど家のことで、どうしようもなくイライラが溜まって爆発しそうになった時があった。
だから、やっぱりそれせかの音楽を流した。プレイヤーの音圧じゃ物足りなくて、ベースアンプにiPodを繋いで、近所迷惑になるくらいの音量で、爆音で流した。それが親への当てつけでもあった。
その時聞いたのが、「サウンドチェック」という曲。今までにはなく、ただめちゃくちゃにボーカルのしのさんが叫ぶ曲。
シャウトとか、そういう音楽には全く興味がなかったから、私はその曲が好きじゃなかった。歌詞に大した意味はなくて、ただお腹の底から叫ぶだけみたいな曲。
だけど、イライラした時にはその曲を聞くのが定番になっていた。自分が叫ぶ代わりに、代わりに叫んでくれる曲を聴くことで、少しでも気持ちを晴らしていた。
その日は聴くだけじゃもう気持ちが収まりきらなくて、イライラしながら入ったお風呂で、またその曲を流しながら、湯船の中で叫んだ。水の中なら聞こえないから。その曲と一緒に叫んで、すべて晴らした。
そうしたら、その後に、流れてきたのは「奇跡」という、すごくすごく優しい曲だった。アルバム順で、サウンドチェックの次に流れる曲。正反対みたいに、曲調も歌詞も優しい曲。
そこで、私の心はすうっと救われた。
中学生だった私は、その感動をどうしても本人に伝えたかったんだろうな、ツイートするには長すぎる文章をわざわざメモ書きして、そのスクリーンショットを本人に送りつけた。今なら絶対にできない、そんなこと。
以下、恥を忍んで当時、本人に送ったそのままの文章を載せます。
昨日なんかよくわかんないけどすごくイライラして、どうしようもなく自分にイライラして何も手につかなくなって、大声で叫びたいけどそんなのできないし、物に当たっても満足しなくて、初めてこんなにイライラしたって日でした
それで、どうにもおさまらないからお風呂で湯船の中で叫んだんです、水の中だったら聴こえないから。それでこれは音楽の使い方合ってるのかわからないけど、お風呂でiPodでサウンドチェック流して。正直はじめはサウンドチェックって、ちょっと好きじゃないかもって思ってたけど、昨日はじめてすごく響いて、すごくよくて、よくわかんないけどそのおかげですごくすっきりして、代わりに曲が叫んでくれたみたいな、そしたらそのあと奇跡が流れてきて、それではじめてアルバムの曲順の意味が分かったというかすごいと思って、サウンドチェックと奇跡は真逆の感じなのになんかその流れがすごくいいなとおもって、前からそれせか好きだけど、こんなに救われたのはじめてです、よくわからないけどありがとうございますって伝えたかったんです、大好きです
ひどい文章。感情のままに書き殴ったような記憶がある。
このメッセージに、彼からは「わかる気がする ありがとう」とだけ返事が来た。読んでもらえるだけで十分だった。
はずだった。
その数ヶ月後、ある曲のPVが出た。
タイトルは「浴槽」。
その時は何も思わなかった。何も知らなかったし、気づかなかった。
PVが出た数週間後、ボーカルのツイートを見て、心臓が止まるかと思った。
「浴槽」
ある女の子からのリプライ「それでも世界が続くならのあの曲好きじゃなかったんですが 急に叫びたくなって 叫ぶ場所がなくて その好きじゃない曲を流してお風呂に潜って叫んだんです」の返信です シャワー浴びてると独り言をする時期が僕にもあって その多くは「返してくれよ」でした
息が詰まった。
なんの疑いもなく、これはわたしのことなのだとすぐに分かった。
私からの、ただ一方的に伝えたかった、「あの曲を作ってくれたおかげで救われました」というメッセージ。それに対する、明確な「返信」が、音楽で返ってきた。
こんなことがあっていいのか。
私の言葉から曲ができたなんて。
さらに、この「浴槽」という曲のPV映像はファンの公募で作られていて、私も動画を応募していた。そして、私が撮った映像は、曲の頭と、そして、一番最後に使われている。これは、全くの偶然として。
どういう巡り合わせなのだろう。
PVが公開された時、私は自分の映像がすごくいい部分で使われていることに喜んで、自分の映像が、たとえ一瞬だろうがなんだろうが彼らの曲の一部になって、残り続けるのだということに大喜びした。それだけでもちろん十分だった。
その数週間後、それを遥かに超える事実を知った。
これは私へのアンサーソング。私のための曲だなんて烏滸がましいけど、そう思えるくらいに、「私に向けた曲なんだ」ということや、「私のメッセージが曲を生んだんだ」という事実が押し寄せてきた。
そして、それと同時に思ったのは、これはわたしに「参加賞」をくれたのだな、ということだ。
彼らの代表曲に、「参加賞」という曲がある。
そうだなできれば参加賞が欲しいな
「ここにいた」ってこと証明してみせてよ
音楽のいいところは、バンドがなくなっても作った人間が死んでしまっても、歌だけは永遠に残り続けて、聴き続けられるということ。
「浴槽」という曲が出来て、残り続けることは、私が「ここにいた」「生きていた」ということの証明になるのではないだろうか、と。
なんとなく、自分が生きていたことが残ればいいなと思っていた。だけど、私には例えばこうして文章を、インターネットという膨大な場所の隅に書くことしかできない。
でも、彼らの曲は、きっと誰かが聴き続けてくれる。だって、音楽なんだもの。あの曲が私の言葉から生まれたのだとすれば、あの曲が残ることで私の意思も残り続ける、そういう解釈をしてもいいんじゃないかな。
だからしのさんは、それでも世界が続くならは、私を何度も音楽で救ってくれたし、自分の言葉から曲が生まれるという貴重な経験をくれたし、参加賞をくれました。
今、大人になって、自分の感情とかメンタルのコントロールができるようになったし、前よりは人付き合いが上手くなって、前みたいにひどく落ち込んだり病むことはなくなりました。
それに伴って、わたしはそれせかの音楽からゆるやかに、離れていきました。
だけど、必ず彼らの音楽が必要な、苦しんでる人が居ると思う。彼らの音楽にしか救われない人が、一定数、少なくても必ずいると思っています。
そして、私は時々彼らの音楽を思い出したように聴いて、当時を思い出して、少しだけ穏やかな気持ちになります。
彼らの音楽から離れていくことは、彼らにとってどうかはわからないけど、私にとってはいいことなんだと思う。成長なんだと思う。本当に、色々なものをくれました。ありがとうございます。
この文章を書くに当たって、久しぶりにサウンドチェックから奇跡、という流れでアルバムを聴きました。改めて、この曲順の意味を噛み締めます。そして、奇跡という曲が本当に好きだなと思います。
その大好きな一節を。
きっと僕らはなんにもなれないけど
でも僕らはなんにでもなれるんだ
優しくなれないなら死んだほうがいい
誰が言ったの君にそんな嘘を
あり得ない って言い切った奇跡が
ほら そこらじゅうで僕らを笑った
トリップ
People In The Boxでわたしは旅をする。
直訳すれば箱の中の人々のくせに、彼らはどこまでもわたしの知らない世界を教えてくれる。
それはある時は誰かの部屋で、ある時は今よりも過去の出来事で、未来に起きている出来事で、外国で、どこにもない場所である。
物語だけれど、彼らの歌には結末がなかったり、前提条件がなかったりする。
だからそれらの場所は全てわたしの中に作られている世界にすぎない。
正解か間違いかもわからない。
だけどたしかに風景は浮かんでくる。空想の話であっても。
この記事を書いた時点では最新であるTabula Rasaをあまり聴いていなかったけど久しぶりにアルバムで聞いた。そしてこれを書いている。
最近は以前のPeopleよりは明確な場所とか設定がない気がする。けど、やっぱりわたしの知らない22世紀からの歌もある。
歌詞は曖昧で比喩的で、いろんな解釈ができるから面白い。真剣に聴くと本当に文学的で面白い。
そして単純に、言葉選びがいい。
そもそも最初に彼らを聴いたのも、「冷血と作法」の不可思議さに惹かれたからだった。
最近はこういう人の思考を知りたいと思う。
ペリカンファンクラブのエンドウアンリも最近のそれ。
彼のブログを見るたびに、曲を聴くたびに、彼の思考があまりにも先をいっているのか、わたしの想像力が足りないのか、わからなくなる。
彼とわたしで見えている世界が同じだとは思えない空想を、彼は当たり前に自分が見たかのように書き記す。歴史が混乱している。
波多野さんも同じだ。
彼は普通の人の3倍くらいの時間を経験しているのではないかと怖くなる。
彼はわたしの知らない世界を、あまりにも多く知りすぎていないか?
私はアメリカもリマもマルタも行ったことはないし、無菌室も集中治療室も、彼の言う浴室も知らないし、どこでもないところも町Aもはじまりの国も行くことはできない。
どうやったらその全部に行けるのだろう?
何度も音楽を聴けばいいか。
でも、聴けば聴くほどその場所が遠ざかる気がしてならない。
初めて聴いたあの瞬間に、直感的に想像を膨らませて私はその場所に行くことができたけれど、聴けば聴くほど想像することが難しくなって、遠ざかる気がする。
彼と同じ感受性を持ってして、この世界で生きれば彼の思考の全てにたどり着けるか?
いずれにせよ、私はピープルの音楽を聴くしかない。そして、想像するしかない。
私はピープルの曲でいろんな場所にトリップした。
中世のような世界観や、100年後の世界、
暗く狭い密室みたいなところも、誰もいない荒野も。
想像した。
いつかFamily Recordだけを流して、東京から全てを回る旅行がしたいと思っている。
できればひとりで、音楽と風景だけに集中して。
どれくらい想像が合っていて、違っているか。
彼の言うアメリカは現実のアメリカ合衆国か、はたまたこの世界にははなから存在していない架空の"アメリカ"なのか、確かめなければならない。
その旅を終える頃、JFK空港からのフライトで、私は「どこでもないところ」にたどり着けるのだろうか。
まだまだ人生は長い。
赤、テレキャス、ヒーロー
以下、2019年11月の私の駄文。
解散したバンドのラストライブのDVDを観ていた。
時たま思い出しては見たくなって、でも時間がなくて、ようやく昨日。
解散してからも音源ではたまに聴いていたけど、彼らはライブバンドだったから、映像を見てそろそろ思い出さないといけないな、と思っていた。
もう1年も経ったのに、ようやくフィルムを開けた。
そうしたら、なんか、思ってたのと違った。
映像で見ればあの時の感動も興奮もまた蘇らせることができるから大丈夫、と自分に言い聞かせていた1年だったけど、そううまくはいかなかった。
彼らはライブハウスという空間において、ライブバンドだった。
だから映像で見る彼らは、確かに私の視界に映っていたものだったけれど、その轟音も熱も、私はありありと思い出すことはもうできなかった。
この間閃光ライオットのHPを眺めていて、相も変わらず2013年のライブレポに目を留めた。
これは何度も言っているが、閃光2013年のファイナリストの音楽に出会ったおかげで今こんなにライブハウスが好きで、たくさんの音楽が好きだ。
イントロからの凄まじいヒリヒリ感に、会場全体が、衝動の坩堝になっていたような感覚。
ああ、ここまでの感情の揺さぶられ方は、グランプリかもしれない、という予感とおさまらないドキドキ感。
たしかな衝動を見た、閃光ライオット2013だった。
これが閃光ライオットだ、という瞬間、それを体現するライブ。的確な言葉でそのバンドは褒め称えられていた。
後にも先にもこんな文章が書かれていたのはこの年の、このバンドだけだった。
閃光ライオットの、10代特有の感情がぶつけられている音楽が好きだった。劣等とか衝動とか希望とか挫折とか全部詰め込んだ青臭いほど輝いている泥臭い音楽たちが好きだった。
そして彼らは本当にその体現だったんだろうな、と容易に想像がつく。
尖ったギターも音程なんて無視した衝動的な歌も、それを取り巻くベースもドラムスも、すべて10代だからできた音楽で、10代のわたしだったから心を突き動かされた。
ある意味、引き際を知っていたのかもしれない。
大人になった、なってしまったということなのかもしれない。一瞬、何よりも輝くということは、そのあと堕ちていくことで。
10代の衝動を一番、情熱的に鳴らした音楽だからこそ、20代半ばを迎えた今、それは無くなって然り、なのかもしれない。
それが一番青臭くて青春で、閉じ込めてしまったほうが永遠に綺麗なままかもしれない。
だけど悔しいのは、彼らほどのバンドが、他のバンドよりも先になくなってしまったことだ。
ライブハウスでこそ意味をなす音楽が、その鳴り場所を失ってしまったことだ。
音源で聴いたって伝わらないんだよ。
それがいいか悪いかはわからない。
だけど、彼らの熱量は、音源じゃわからない。わかってたまるか。
彼らの長所も短所も、それだったと思う。足を運べば囚われる、でも、足を運ばなきゃわからない。
閃光の音源を初めてラジオで聞いた時、私はその音楽が特に好きでも嫌いでもなかった。ファイナリストの中で彼らより好きだと思った曲はいくつもあって、彼らの曲はせいぜい4番目に好きかな、くらいのものだった。
でも、たまたま、なんとなく選んだ2014年MINAMI WHEELの2日目、あの時間、SUN HALLにて、全部持っていかれた。
初めて足を運んだライブハウスで、これがバンドで、これがライブなんだ、と思った。
それと同じ日、わたしが閃光で一番好きだと自負していた別のバンドも観たけれど、その日心を奪われて一杯にされたのは、想像もしていなかった、私の4番手だった。
拳が自然に上がって、飛び跳ねた。
気付いたら何列も前にいて、濡れて額に張り付いた長い前髪の隙間から見える、子供のようにいたずらな目の光を、眺めていた。
これは誇張した表現なんかじゃなくて本当だ。眼光が鋭かった。
「俺たちが一番を取りに来たんだ」と、彼らは言ったし、そんなふうな顔でそんな音楽を鳴らしていた!
とにかく、きっかけはそんなことだった。
たまたまタイムテーブルが空いていて、知っている名前のバンドだったからなんとなく入った。
そこからは、地方からも何度もライブを観に行った。
長らえないことがカッコ良かったのかもしれない。
歳を重ねるにつれて、若気の衝動に溢れた音楽は、いつか必ず歌えなくなる。
丸くなる前に、彼らは青いまま終わらせたんだなあ。
2014年、満員だったサンホールから、気づけば何年も経って、確かにフロアの人はまばらになっていた。
それに伴って彼らの音楽やMCは丸くなって、どこかスイッチが入りきっていないような日も感じたことがないとは言わない。
でも、こんなもんじゃないんだよ彼らは、とわたしはもどかしかった。
解散を発表する数日前、ちょうどライブに行っていた。
また来ますと言ったら、笑ってポケットからくしゃくしゃのステージパスをくれた。
向こうからくれるなんて珍しいな、と思ったら解散が告げられた。
なんだよ、決まってたんじゃん、と思った。
そこからのライブは、フロアが満員だった。
彼らも気合が入っていて、「初めに見た頃みたいだ」って思った。
ああ、そういうことか。
彼らは、気づかないうちに少しずつ、変わってたんだな。
気持ち云々とかじゃなくて、たぶん不可抗力で。大人になるってそういうことなんだろうな、と思った。
初めて見た彼らの、あの勢いに、衝動にやられたんだ。それを待っていたけど、衝動を5年も6年も続けられるわけないんだって。
だって、衝動ってきっとそういうものだもの。
解散発表されてから2ヶ月と少しの間に、3回ライブに足を運んだ。
悔しかった。
悔しいぐらい彼らは衝動に溢れていて、比べ物にならないぐらいかっこよかったから。
やればできんじゃん。これ、ずっと見せてよ。
だけど、ずっとできないからいいんだってこともわかってた。発表があったせいで増えた動員と、でもそのおかげで気合が入った彼らのステージのジレンマがたまらなくもどかしくて悔しかった。
もう遅いよ。
一番ショックだったのは、このバンドの生命力は凄まじいと、なんとなく思っていたからだ。
逆境とか非難とか、くそくらえってギター爆音でかき鳴らして跳ね除けていそうなのに。何があっても続くと思ってたんだ。
「いつの間にか僕のやりたいことはフィッシュライフのボーカルではなくなってしまいました」
だから、何度読んでもわからなかった。
この一節が、いちばん、こたえた。
いつだって彼は誇らしげに、「俺たちがフィッシュライフだ!」と叫んでいた。ギターをかき鳴らして、轟音の中で。その迷いのない信念が好きだった。
真意はわからないけど、彼がフィッシュライフをもうやりたくないと言ったなんて、思ったなんて、想像したくなかった。
今更全部、どうしようもない。
10代で彼らの音楽に出会えてよかったと思う。
リアルタイムで、彼らのライブの空気を吸って、共有できたことがどれほどの奇跡で素晴らしいことか!
大人になってからじゃ、きっとあの音楽は響かなかった。でも、10代の頃に聴いた衝動が奥底にあれば、いくつになったときに聴き返しても、その時の衝動と感情と青春が相まって、また鮮やかに蘇らせることができる。
音楽の素敵なところは、そんなところだ。
赤いテレキャスターの色と、
ハウリングの音、飛ぶ赤。
フィッシュライフというバンドが確かに、
真っ赤にわたしの青春にいた。